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私は1980年にフラメンコに出会い、大学を中退して働きながらフラメンコ教室に通いました。先生方にショーやコンサートの出演のチャンスをいただき、夢中で踊っているうちに踊りで身を立てる決心をしました。
先生方や仕事先の人々に助けられながら、4年間お金を貯めて初めてスペインに留学し、1日8時間は踊り、コンサートやショーを見に行くというフラメンコ漬けの毎日でした。マドリーの古いアモール・デ・ディオスのたたずまいや、クラスの様子などが、今でも鮮烈に脳裏に蘇ります。日曜日はクラスもなく、街の殆どの店も閉まるので、レティロ公園に行ったり美術館巡りをして過ごしました。
帰国するとすぐ、タブラオ出演の仕事をいただき、本格的にダンサーとして働き始めました。特に85年から87年にかけての3年余、新宿ギターラのレギュラーメンバーとして週6日、1日3回のステージに出演していた時のことは一生忘れないでしょう。
子供時代、スポーツにも芸能にも殆ど無縁だったので、タブラオのバイラオーラの生活は強烈な刺激と魅力に満ちていました。その新宿ギターラが解散してしまい、またスペインへ留学し、その後、南米のグアテマラへ渡りました。そこで初めてのソロコンサートを行いましたが、今から考えると信じられないことに、コンサートの演目は11曲、そのうちの9曲は私が一人で踊りました。ギターは後の夫となるダビ・ラインフィエスタで、カンタオール(歌手)が居なかったので、メロデイーをシンセサイザーやエレクトリックベースの奏者に頼んでの、大変苦労したコンサートでした。
コンサートの翌日帰国し、西日暮里・アルハンブラ、六本木・麗の店、阿佐ヶ谷・カサブランカなどのタブラオに出演しつつ、自分のオリジナルナンバー(ワルツ・ペルアーノ、カルメン、ダンサ・デ・モリネロなど)をダビと共に作り始めました。ダビはラテンアメリカ出身で、またクラシック音楽の基礎があるので、私達の特色を探そうとしていました。
1990年長女を出産し、舞踊生活は大きく変わりました。育児と舞踊との両立は大変だったけれど、私には両方とも本当に大切だったので、必死でやるしかなかった時期です。
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